祖父が亡くなった。
母親から、祖父が実は1か月近く入院していて、今すぐにというわけではないが、覚悟はしておいてと言われたのが3週間前。それから急いで礼服を仕立てて、完成したのが通夜の前日だった。
なんとまぁ、タイミングが良いというか・・・礼服を準備すると亡くなるという話しを聞いたことがあるが、本当にそうなってしまった。
自分は初孫で祖父には大分可愛がってもらった。
祖父は自分が小学校低学年のころまで、おもちゃ屋(駄菓子やゲームの筐体も置いてあった)をやっていて、遊びにいけば、売ってる駄菓子は食べ放題だし、ガチャガチャやカードダスはやり放題だった。
子どもながら遠慮はしていたが、言えば必ずお小遣いをくれた。「ちゅうちゅうたこかいな」と10円玉を10枚くれるのだ。祖父は「買い物の練習をさせてるんだ」と言っていたが、明らかに甘やかし過ぎだったと思う。
閉店後、店の掃除を手伝って誉められたのを覚えている。
店は閉店時間は覚えていないが、夏祭りの日だけは夜10時までやっていて、その日は一日中賑わっていた。また、自分も毎年楽しみにしていて、この時期には必ず帰省していた。
小学生の頃は、帰省するとファミコンばかりやっていた。家では親が長時間やらせてくれなかったのだ。そんな自分を見て、散歩に連れ出されたこともあった。
夏になると氷屋に連れていってもらい、かき氷を食べさせてもらった。祖父は、ふわふわのかき氷がくると、両手で氷を固めてから食べていた。
自分の親は転勤族で、引っ越しの準備で子どもが邪魔になると、決まって預けられた。お店もあったし、当時は実家付近もそれなりに賑やかだったので、遊ぶものには事欠かなかった。
祖父は耳が聞こえなかった。自分が生まれる前に、突発性難聴になったそうだ。だから、物心ついたころから、祖父は補聴器をしていて、話すときはジェスチャーや筆談を交えて、補聴器に向かって話した。耳が聞こえなくなったとき医者にあと10年生きられるかどうか、と言われたそうだ。実際には30年以上生きた。
祖父はテレビ、新聞、週刊誌が好きだった。店を閉め、引退してからは、テレビをよく見ていたような気がする。遊びに行くと、決まってテレビの前にいた。朝、新聞が届くとその日に見る番組をリストアップするのだ。テレビの合間に新聞、週刊誌を読んだり、昼寝していたりした。
引退してからは、川柳が趣味だった。テレビ、新聞、週刊誌の情報をもとに川柳を作っては、新聞、週刊誌に政治を皮肉った作品を投稿していた。遊びに行くたびに、掲載された作品を見せられた。
大学に入りひとり暮らしするようになると、毎月2万円仕送りをしてくれた。現金書留の封筒の中には、祖父の近況を綴った手紙と返信用ハガキが入っていた。返信しないと督促のハガキがきた。ひとり暮らしするようになると、両親宅に帰るよりも祖父母宅に帰ることが多くなった。孫の待遇が良いのだ。
情報系の会社に就職すると、帰省するたびに「コンピューターのことはわからない」と言っていた。このあたりから、よく昔のことを話すようになった気がする。(たんに自分が覚えているからかもしれないが。)
祖父が就職したばかりのころの話。住んでいた部屋や給料。戦争の話。おもちゃ屋を始めた経緯などを聞いた。
結婚して、妻と帰省すると、妻相手に昔のことを話していた。何度か聞いた内容だった。また、「年のせいか上手く歩けなくなった」と言っていた。90過ぎて、腰も曲がらず、杖もついていないので、他の老人に比べれば元気なものだった。
息子が生まれて、移動ができるようになり、1回だけ会わせることができた。
その後、結核が発病し入院した。結核は治ったが、入院生活で歩けなくなった祖父は施設に入った。そこで、体調を崩すまでリハビリをしながら暮らした。定期的に母と祖母が会いに行き、週刊誌や飴を届けていた。
母親の覚悟をしておけという電話の後、折を見て病院に見舞いに行った。亡くなる10日前だった。胆嚢が腫れていて食べ物は食べられなかったが、飲み物は大丈夫みたいで、リンゴジュースを勢いよく飲んでいた。「もうダメだよ」と言う一方で「92には見えない」と言われたことを嬉しそうに話していた。
顔色もよく元気そうだったが、週刊誌を読むのがしんどいらしく、読み物は新聞だけになっていた。少し話して「ここは長くいるところじゃない」と帰された。
これが最後だったのだけど、亡くなる前に会えて良かったと今は思っている。会わなかったらきっと後悔したに違いない。
そして、色々と考えてみると良い思い出が多いこと多いこと。良い思い出しかない。自分もこんなじいさんになりたいものだ。息子が結婚して孫が生まれるかはわからないが・・・